「アスペ人間」とは
この「アスペ」とは「アスペルガー症候群」の省略です。そして本稿では、「アスペルガー症候群」の兆候を持つ人のことを「アスペ人間」と呼ぶこととします。ただし、この呼称に差別視は一切ありません。
ウィキペディアによると、「アスペルガー症候群」とは、〈コミュニケーションや興味について特異性が認められるものの言語発達は良好な、先天的なヒトの発達における障害。本診名はなく自閉症スペクトラム障害の中に位置づけられる 〉とあります。
そのように一般的には「障害」ことに「自閉症」の一種とあつかわれているようです。しかし本稿ではそれを、パーソナリティのバラエティーのひとつと考え、「障害」と異常視する排除的見方ではなく包容的な見方で捉えます。それとは反対に、「LGBTQ+」と称される特徴は、この「障害」視とは真逆の見方と理解し、カミングアウトとは、自分はその一種であると名乗りでる自尊する行為のことです。
報道によれば、自分が「アスペルガー症候群」であるとカミングアウトしている著名人には、イーロン・マスクやグレタ・トゥーンベリらがおり、歴史上の人物では、ゴッホやアインシュタインがそうだといいます。
そして、本稿で「アスペ人間」を取り上げるのは、そうした特徴とは「生命情報」のひとつであると見るからで、それはさまざまな違いの一種以上の意味――まして「障害」として異常扱いする意味――をもつものとは考えません。ただ近年、上記のように「症候群」と呼んで障害の一種と扱われることが広まっていることに賛同できません。
空気が読めない「アスペ人間」
「アスペルガー症候群」を、「空気」という日本的間尺でもって計るとすると、「空気が読めない」人とは言えそうです。さらには、物事をはっきりさせようと自らを出っ張らせることに、なんら抵抗感を持たない人とも言えます。古い言葉を使えば「竹を割ったような性格」とでも言えましょう。
国際的に言えば、日本人は、「アスペルガー症候群」の特徴をあまり持たず、さらにそれを抑制する傾向の人たちで、他方、西洋人は、大なり小なり、その特徴を備えていると私は見ます。それどころか、私のオーストラリア居住の体験からでは、あえて自分の特徴をはっきりするように、子供の頃から教育されています。言い換えれば、日本人は、そのように論理的な割り切りに距離をおき、全体の調和に重きを置く人たちで、西洋人は、その逆といった人たちと対比できるかとも思います。
そうした論理的割り切りという乾燥を持ち込まない湿り気ことを、日本人は上記のように「空気」と受け止めています。日本の春先の大気のように、ふわっと暖気をもつ湿り気に包まれた居心地の良さを、「空気」と一言で表現しているわけです。
愛すべき「アスペ人間」
近年、なにかと「アスペルガー症候群」との呼称を聞くことが多くなるにつれ、私ごとですが、私は最近、自分のパートナーが「アスペ人間」の一人だと気付くこととなり、「アスペ人間」とはそのように身近な人たちの一人だと思うようになりました。そして、私が本稿を書く動機となったのも、彼女をそう見ることが、むしろ彼女をまるまる認めることだとも解ったからです。
私は若いころから、対人的に好き嫌いが明瞭で、人付き合いもよい方ではなく、社交的といった性格とは反対の人間でした。逆に、そのように偏屈にガードを固めないと、自分を保てないと信じてきました。ですから、私の生涯では、そのガードのために、しかもそれをそうとは認識できず、それが普通とすらと思ってきたために、ずいぶん他者に、扉を閉ざすようにしてきたはずです。
そういう意味では、自分も「アスペ的」というパーソナリティのスペクトラムのどこかに位置するのかも知れません。ただ、争いごとは好きでない点は、「隠れアスペ」などとより手の込んだ特徴かも知れません。ともあれ、それもこれも、パーソナリティのいろいろのひとつと見ることはとても大事なことと思います。
偏光レンズ
話は跳びますが、サングラスに偏光サングラスというものがあります。一般に、反射によるぎらつきを除去することから、ドライブや魚釣り向きのサングラスとされています。
このサングラスには、偏光レンズというものが用いられており、可視光線のうちの縦波だけを通過させ、横波をカットします。ですから、二つの偏光レンズを用いて重ね合い、一方を固定し、他方を回転させると、通過する光はだんだん絞られ、みた目には暗くなってゆきます。そして、丁度90度回転したところで、光は完全に遮断されます。つまり、偏光レンズというものは、光のうちの多様な要素のうち、ひとつの要素のみを拾い上げて見るレンズということができます。
この偏光レンズの働きを比喩として用い、「アスペルガー症候群」のことを解釈できます。
つまり、「アスペ人間」は、物事を見るにあたって、偏光レンズのように、自分が是とする、ある要素のみを取り出し、他の要素を気にしない傾向のある人間と言えます。そこが、「空気を読めない」現象となって現れてきます。
つまり「アスペ人間」には、世の中の入り組んだ要素を、そのようにふるい分ける能力をもった人物といえ、適材適所の判断が適正なら、その場に応じた優れた能力を発揮する人材ともいえます。
「生命情報」のふるい分け
私は、「アスペ人間」を「偏光レンズ」人間となぞらえることも可能かと見ます。すなわち、こうした「アスペ人間」の能力を、人間という生命に限りなく存在する〈生命情報〉の選別能力だと見ます。
これは昆虫の世界の話ですが、昆虫は人間が感じられない紫外線を感知することができ、それによってたとえば花を見分けています。また鳥の世界では、渡り鳥は、磁界を感じることができ、それによって地球を半周するような長旅を迷うことなくできるといいます。
つまり、人間の世界にあっても、いまだ多くの部分が未解明ではある、無数の生命情報が存在しているはずです。それを、例えば、「アスペ人間」は、他の情報をカットして、なんらかの特殊な情報を選択的に看取できる能力を備えている〈精密分析機器〉と言い換えればどうでしょう。
「アスペ」という「個性」
私の身の回りをみわました時、そうした顕著なパーソナリティを持った人が、時に、その「空気が読めない」あるいは「空気を読まない」〈精密分析機器〉のような性格を生かして、並な人間ができないことをさほどの躊躇もなく、いとも見事にやり切ってしまうことを目撃します。
上に著名人物を挙げたように、そうした人たちは、それまで、誰もそうしなかった何事かにフォーカスを集中し、ことに歴史上の人物はその道での成果を上げた人たちです。
ただ、ここで興味深いのは、それが「空気」とよばれて、曖昧ながらも、ともかくその何かが感じ取られていること――ある意味での常識――です。つまりその「空気」とは、この世界に存在している、いまだ未知ながら何かが存在している、多くがそれを仮にでも「空気」と呼んでいると解釈できます。その「空気」とは、時に「自然」とも言い換えられたりするように、それは生命情報をそのように包括的に指摘している代名詞と捉えていいものかも知れません。日本人はそういう意味で、生命情報を、より繊細にとらえている人たちと言えるでしょう。
つまり、生命情報全体を代表するその「空気」に、「アスペ人間」の〈精密分析機器〉が働いた時、より正確な全体的自然認識ができてゆくものと思われるわけです。
「アスペ」的特徴とは、一面、非日本的ではありながら、そういう「個性」と言い換えてもいいと私は思います。でもその本人にとっては、それが「自分」であり、その特徴が「自分らしさ」です。
言い換えれば、それを個性のバラエティーに含めず、「アスペルガー症候群」なぞと症候分類のひとつとすることに、なにやら、いろいろある「個性」のうちから、社会あるいは特定勢力が、ある種のものを異常あつかいして排除する、そうした非寛容な意図が働いているように感じます。
ともあれ、誰も自分の「アスペ」具合を知り、互いにおおいに「アスペ」りましょう。