日本経済新聞の「テクノ新生」との連載の7月7日付けで、「生成AI開発、誤報防止にも投資を 米専門家」と題された記事(電子版)があります。そこに、インターネット上の偽情報を作り出す技術が高度化し、情報自体を信じられなくなる世界が近づく「情報の終焉(インフォカリプス)」との予想が紹介されています。そしてこの記事は、「真偽を判別するコストの増大が社会制度を毀損させる 」という米専門家の見解を伝えています。つまり、今日、急速にその実感を深めている、フェイク情報の氾濫――まずは疑ってかかれ――との状況認識です。
そこでですが、その記事でいう「情報」とは、IT技術が扱うデジタル情報のことです。一方、私が述べてきている「生命情報」は、こうした「情報」とは一線を画したものです。そして、そうした従来情報の終焉が身に迫って感じられるからこそ、私たちにとっての信頼に値する情報を求めて、あるいは、むしろ私たちは本来それに基づいて生きているはずという、「生命情報」に目を向けることとなります。
ファジーでいい「生命情報」
この「生命情報」について、この「はじめに」で、すでに四つの視点からその輪郭を述べてきました。ただ、それは確かに輪郭とは表現できる程度のもので、まだ明瞭な境界線や定義をもつものではなく、そういう意味ではファジーなものです。
しかしそのファジーさは、それほどのあいまいな手掛かりしかないといった消極的ものではなく、むしろ、そうしたコアをもって開放的に歩み出して行く起点としてのファジーさともいうべきものです。
あるいは、上記のような今日の情報社会が向かっている不信な認識が蔓延する環境にあって、信頼を託して向かいうる新たな方向として、まだそのファジーさを伴うとしても、太い指針としてそのように提示されるものです。
さらに、今日の混迷したシーンや悲観的な見通に満ちた状況にあって、心情的な面からも、新たな明るい方向を大いに期待したいものです。
ふたつの期待される二本柱
そうした、展望を失い、閉塞を深めている時代にあって、その行き詰まりを打開してゆく手掛かりは、その閉塞をなす詳細をいくら掘り返しても得られるものではないでしょう。むしろ、その全体を巨視的に見渡す哲学的視野にこそ、その期待が託されるものとなるでしょう。
実際に、幾世紀にもわたった定着してきた考え方、ことに、その先導をなしてきた科学の分野において、その引き継がれ、蓄積されてきた考え方の根本的見直しの始動が見られます。
それは、ことに近代社会形成の原動力であった思想潮流=分析的還元主義――ものごとを分解して根源要素に還元し、その要素を合算したものを全体とみなす――が行き着いている限界です。
そこでのその「始動」の一つが、「生命は部分の合算ではない」と見るホーリスティックな生物学であり、そこでその全体を結び付けている作用、つまり「生命情報」の働きです。
そしてもう一つが物理学上の発展で、それ以上に細分できない物質の最小単位に発見されてきている、従来の物理学上の常識が通用しないその最小単位すなわち量子の特徴です。そしてそれは、モノというより、むしろ情報ともいうべきもので、その「量子情報」の働きの従来の常識を破って考えるしかない新しさを必要としています。つまりそれは、哲学的レベルでの考え直しが求められているものであり、かつ、思念自体から導かれたものではなく、対象の厳密な観測と実験から得られた、その意味で科学的なステップを踏む産物です。
こうした二つの分野における新たな意味での「情報」概念の登場について、さらに、この「生命情報」においては、まだ、科学一般では別々にしか扱われていないそれぞれを、それこそ「牽強付会」に結び付け、より人間サイズへと引き付け、よりホーリスティックな概念の形成を目指します。
警句風にそれ言い換えれば、生命がこれほどに危機にさらされている時代であるからこそ、私たちは、その生命が果たしている見落とされてきた働きに気付き始めているのかも知れません。