《「バーチャル地球」人》に生まれ代る

はじめに、「バーチャル」という「仮想」との意味において使われるインターネット用語についてです(蛇足気味ですが)。この用語は、 たとえば、「バーチャル商店街」 との語があるとすると、それは、現実に存在する「商店街」ではなく、ネット空間上に仮想商店街として存在するものをそう呼びます。ですから、実際の土地や建物を用意する必要はないために、通常、すばやく安価にそれを設置できます。

そういう「バーチャル」という語を用いるこの「バーチャル地球」は、しかし、ネット空間上に存在する便利な仮想地球という意味ではありません。そうではなく、今の現実の地球は、今日までに発達した多様なネット空間を付随させているわけですから、そういうバーチャル空間を合わせ含めて存在する地球を 「バーチャル地球」と呼ぶものです。

したがって、もし宇宙空間から――たとえば月や火星から――、可視光線ではなく、インターネット通信に使われている電磁波バンドを通してこの 「バーチャル地球」 を見たならば、「ネット空間」をなす無数の交信を支える高エネルギーによって、その地球は明るく輝いた球体に見えるでしょう。しかも、実際の地球をおおってその電磁波が飛び交っているわけですから、その光球の大きさは、現実の地球よりはるかに大きいでしょう。

つまり、私たちにバーチャル現実として受け入れられつつあるネット空間とは、物的空間かあるいは非物的空間かと問えば、単なるイメージ上の非物的世界です。今の地球は、そのネット空間を駆使してそこに生息する私たち人間を抱えているのですから、もはや旧来の意味でいう地球では寸足らずで、そういう新たな意味――物的空間と非物的空間の双方を持つ――を含めた地球という受け止めが必要です。だからこそ、この新たな意味における地球を「バーチャル地球」と呼ぶわけです。

そこで、そうした新たな地球観である 「バーチャル地球」 が、私たち人間の現在そしてこれからの存在基盤であるとするならば、旧来の地球をその存在基盤としてきた私たちのこれまで在り方が、いかに偏った部分的なものであったかが見えてきます。


「バーチャル地球」 に生きる

今、私たちの多くが、そうした「バーチャル地球」を自身の生存の基盤とし始めているということは、もはや私たちはその全人類的規模において、旧来の「地球」と呼ばれてきた天体のもつ条件に拘束されてはいないということです。

そこで、そ の「バーチャル地球」 の一角をクローズアップすれば、たとえば、すでにほぼ誰もが、家に居ながらにして、ネットを通じたショッピングを楽しんでいます。お陰で、従来の実際の大規模な店舗をかかえたデパートなどを典型例に、競争に耐えきれず、やむない撤退に追い込まれています。

また、その焦点をやや広い分野にあてれば、歴史においては抑圧と征服に終始し、また環境においては無残に汚染され異常気象に見舞われ続けてきた、そういう旧来の地球があります。そしてそういう地球は、もはや、私たち人間をして、それを基盤に生きるにはこと足りない存在となったと言え、発達したネット空間を駆使したバーチャル現実を新現実として取り入れた、新たな地球環境に生息し始めているということです。

そればかりか、量子理論の進展によってもたらされつつある新たな世界認識、すなわち、「科学と神秘主義の融合」とか「非局地性」とかいった、ある意味で超常現象すら取り込みうる、新次元の地球観を基盤とした、新次元の地球人、すなわち《トランス地球人》(注)が誕生、あるいは自らをそう変えようとする人が増え始めているということです。

  • (注) この「トランス trans- 」という接頭語は、「越えて、超越して、別の状態へ」といった意味を表し、「トランス地球人」とは、旧地球人を越えた地球人という意味です。ちなみに、近年、性的少数者問題に関係して、トランスジェンダーという言葉が使われています。本稿では、そういう性自認の問題を抱える少数者をリスペクトするこの言葉のニュアンスを借用し、究極的には、誰もが少数者で、それこそ自分は世界に一人しかいない代替不可能な存在という基準的少数者の視点を、そこに含意したいとする造語です。

やがて大金持ちたちは、宇宙船でもチャーターして、さんざん食い荒らした地球を後にしようとするのでしょうし、蓄えた巨万のマネーも、とどのつまりは、それくらいにしか使えないことを身をもって示すのでしょう。しかし、私たち大多数の地球人は、そういう地球にとどまるしかなく、それも、醜悪に差別を植え付けられたその既存社会にです。

しかし、さいわいに、そういう旧地球の古典的物理世界に、「非局地性」という、物的にも観念的にも尺度を異ならせる新現実が開かれはじめており、そこにこの「バーチャル地球」 が現実として根差し始めています(より正確には、人間がそういう事実に気付き始めています)。

また、この「非局地性」の概念は、これまでに堆積してきた差別意識や構造を、その意識の中から追い払ってゆく働きも秘めています。

いうなれば、私たちは、旧地球と バーチャル地球 というパラレル世界をまたにかけた住人となりつつあり、その両方を適宜に使い分けながら生きる、これまでにはあり得なかった新たな生き方のスタイルが選択可能な時代が始まっています。

コロナ危機下にある現在に目を向ければ、IT技術に支えられたいわゆる「リモート生活」は、〈劣悪化した環境 〉 と 〈 まだましな環境 〉 との間の往復生活には役立っています。しかし、そういう選択も、 「トランス地球人」 としてはほんの序の口で、そもそも 「トランス地球人」の心髄は、地球上の距離や国の差を「局地的」とし、連帯意識や共生意識を自然とする「非局地性」に根差すところにあります。そういう意味では、コロナ感染による世界への衝撃は、存外、 「リモート生活」 を一例に、人類の目からうろこを取り去る、歩みの第一歩を与えてくれているのかも知れません。

そして今後は、大多数の人々 が、「バーチャル地球」 にその生き方の重心を移してゆくことにより、地球への環境負荷が軽減され、その汚染も異常気象も、改善の道をたどってゆくことが予想されます。


地球健康の回復

「トランス地球人」 も人間という生物である以上、物的存在としての自分と、観念的存在としての自分という二面性を持っています。それが旧来の地球では、その二つの必要を混合して追求してきたために、地球は二重の負荷を背負い込むこととなっていました。

そこで私たちのそうした二面の必要ですが、そもそも自分の身体の維持という物的必要は、いわば、毎日、一つの胃袋を満たせばこと足りるという《限定性》をもっています。ところが、それが観念的必要の面となると、つつましい願望程度ならまだいいのですが、権力とか財産にかかわる野心となれば、それは際限のない必要にまでもグロテスクに肥大し、また、それを理想と描く観念やシステムすら生じてきます。

そこで、この二重の必要を、物的で限定的な必要は旧来の地球に、そして、観念的で限度をもたぬ必要は 「バーチャル地球」 に任せるという使い分けを行ったらどうでしょう。

それを端的に言えば、そもそも地球環境の劣悪化をもたらした原因は、こうした二つの必要が混同されたことにあり、それが物的必要を極大化することを許し、結局は、地球の自然環境の限りない搾取へと向かったからです。したがって、地球上のだれもが、それこそ各自の一つの胃袋をみたすレベルで満足していたならば、のこれほどの環境問題は発生していなかったでしょう。

さらに端的に、そうした環境の搾取の仕組みを指摘すれば、物的蓄積を普遍化するため、 一つの胃袋では消化しきれない分量の余剰産物を、マネーという数的尺度への変換を通じて資産化し、際限なく地球の自然資源を摂取し、蓄積していったことです。かくして、ほんの一握りの人たちが保有している資産総額は、むろんその一握りの人の胃袋を満たす数量を天文学的規模で上回り、そのために、他の大多数の胃袋は永遠に満たされず、この宇宙旅行さえ現実となる時代に、いまだに飢餓死さえ生んでいます。

そこで、地球への負荷を各胃袋の必要量の総計以内に戻し、人間の観念的欲求はすべて 「バーチャル地球」 上で行なうようになったらどうでしょう。

その初期の段階では、おそらく、旧地球の習性のなごりから、セレブと呼ばれる奇形分野への好みの殺到と競い合いが残るでしょう。しかし、それもしばらくの間で、そもそもそうした歪んだ好みの殺到は、マネーという物的蓄積の代替システム機能の収縮につれて吸引力を失ってゆくはずです。そして、最終的には、そうした奇形な風習や文化は消え去り、人々の好みは、「十人十色」なものへと選択が広がり、ついには無数の多様性の花が咲き誇って殺到を無意味にして、個別尺度が広範に行き渡る色彩豊富な世界へと移ってゆくでしょう。

そこでこの 「バーチャル地球」 上では、男も女も、老いも若きも、凡才も奇才も、そして西洋性も東洋性も、だれもがそれぞれにもつ個性の一種となって、世界は、人の頭数だけの文化や価値観によって多様に飾られることとなるでしょう。そこでは、量子コンピューターの桁違いの速度の情報処理技術の普及により、その無限の多様性の無数の結びつきが織りなされ、 「バーチャル地球」の持つネット空間をいっそう厚く深い多色彩に輝かせてゆくでしょう。

また、個的には、人間ひとりが摂取するカロリーは、個々の健康意識や要望が高まるにつれて、もはや飽食が避けられるばかりでなく、適正摂取こそが自己充実の原則として減少します。他方、集団的には、IT技術の進歩により、社会が必要とするエネルギーの無駄使いも削減されて行き、人類の地球へのパラサイト度合いもはるかに軽減され、やがては、共存という解消へ向かうでしょう。

かくして地球は、過剰な負荷を負わされることなく、しだいに本来のエコシステムの働きを取り戻し、人間を含む、全生物の多様性を支えて行くことができるようになるでしょう。

その時の地球環境がどれほど美しいものであるのか、いまならまだ、私たちはそれを忘れ去ってはいないはずです。

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