「MaHa」の学的最前線(その7)

松岡正剛・津田一郎両氏の対談録『初めて語られた 科学と生命と言語の秘密』の「第8章『逸れてゆくもの』への関心」での冒頭、以下のようなやり取りがあります。

松岡 まず、そうとう陳腐な振り分けにすぎないだろう「理科系と文科系」というタームをつかって、数学を武器として科学的な思考をとても大事にしてきた津田さんと、いわば言葉を道具にして編集的な世界像をスケッチしようとしてきたぼくの立ち位置を、やや浮き彫りにしながら話をしたことなんです、、、

p.210

こうした二つの「立ち位置」をめぐって、むろん門外漢がコメントを付すのは大いにはばかるべきことではあります。それを、そういう「陳腐な振り分け」に輪をかけ、むしろ場違いですらある立場は承知の上で、私の自説を述べてみようと思います。

「根源的立ち位置」に立ち返る

と言うのは、この「理科系と文科系」との振り分けに加え、分け方としては物差しからして異なるのですが、「生活系」というタームを挙げてみます。すなわち、この「理科系と文科系」と区別される学的研究の位置の違いに対し、人あるいは生きものが拠って立つ生存の原点(平ったく言えば、「どうやって食ってゆくか」)という間尺において、市井の生活者(これまた平ったく言えば、「無学的一般人」)という立ち位置の取り上げです。

この「生活系」あるいは「生活者」という、すでに幾度も触れてきている、本稿の独自な立ち位置ですが、これは、ひとつの生命が生きる実体験より見出す視点、つまり、抽象による思索や論理ではなく、具体的な実生活や体験という手掛かりに基づき、そこに特定される、学的な異なり以前に存する、根源的立ち位置です。

そこでなのですが、ここから先は、生活者として、その学的世界の垣根の外より述べることですが、まず、本稿の独自性の眼目は、そうした学的追究者には、えてして「主知主義の勇み足」に陥りやすいのではないかとの“外野席”からの異論です。それはたとえば、この対談の中で、二人が互いに共有し合っている「引き算」という観点があります。

というのは、第9章「意識は数式で書けるのか」に、「世界の成立には引き算が必要だ」という見出しのもとで、以下のようなやり取りがあります(〔〕内および下線は筆者)。

 松岡 ぼくが〔AとBとの間の違いを見出して「マイナス」する〕差分的なもので意識を感じるのは、やっぱり湯川さんからの刺激なんですよ。湯川さんが一八世紀の「ボスコヴィッチの物質論(15)」を解読されている文章があって、その中で、ある物質がそこにあるのか、自発的にそういう位置を持とうとしているのかは、モニタリングする目のようなものがないと説明ができない、と言っているんですね。湯川さんはボスコヴィッチの「加速する点粒子の仮説」を先行理論として解読するんだけれど、ここでいう「目」というのは、津田さんの言い方にならうなら「マイナスされたほう」にあると言ってもいいのかもしれない。もとになった物質は、自分がどうしてそうなったかは知らない。だからそのことをリポートしてあげる必要があって、でもそれは差分の形でしかわからないと言うんです。
 〔注〕(15) 18世紀の物理学者、ルジエル・ボスコヴィッチ(1711─87)が『自然哲学の理論』に表し、後の原子論に影響を与えた物質の力に関する理論。
 津田 なるほど。
 松岡 その話がぼくの起点のひとつになっていて、そこからほどなくしてホワイトヘッドの哲学にのめりこむことになった。なかでとくに主著の『過程と実在』(みすず書房)の中に、アクチュアル・エンティティというキーワードが何度も出てくるんですが、ホワイトヘッドはそれはしかし〝実在者〟ではないだろうと言う。〝実在者〟ならば分割したり、分離したり、場合によっては部品として取り出せる可能性もある。しかし世界を成立させている要素であるアクチュアル・エンティティは、世界からはぐれた瞬間にアクチュアルなものを見せるから、はぐれた以前のものを要素としてアクチュアル・エンティティと呼ぶのは言語矛盾なんだけれども、そう呼ぶしかないんだという言い方をしていて、これは当たってると感じた。
 つまり何かが差っ引かれる、はぐれる、ということを前もって内包しているような動向がAとBの中にあって、はぐれた瞬間にアクチュアル・エンティティとして機能しているのだから、それが意識のようなものなのではないか、ということですね。それで、湯川さんの言う「点粒子がおこす差分」と、ホワイトヘッドの言う「剝がれるアクチュアル・エンティティ」がぼくの中でイメージとして重なりはじめたんです。
 というわけで、意識というものが「AマイナスB」という形をしているという見方は、ぼくにはできていなかったけれど、ある程度は納得できます。世界の成立の仕方を説明するのに引き算型が必要だという感覚は昔から持っていて、よくわかる。それで言っておきたいことは、日本文化では「引き算」がとても重視されていたということです。
 津田 それまた興味深い。西洋文化は積み上げ式を重視するようにみえるので、足し算的要素が濃いのかな。
 松岡 そうかもしれません。ごくごく象徴的な話をしておきますが、藤原定家に「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮」という歌がありますね。三夕の和歌としても有名ですが、秋の夕暮れの苫屋(粗末な小屋)しかないような浜辺の風景を、あえて「花も紅葉もない」というふうに詠んだ。寂しい夕暮れの風景を何もなくて寂しいなあと詠んだのではなく、「花と紅葉の欠如」によって捉えた歌です。
 この歌は世阿弥も利休も芭蕉もその当時から傾注していた歌で、ここには日本の表現の秘密が隠されています。浜辺に花や紅葉がないなんて当たり前なのに、花も紅葉も「ない」という引き算を見せることによって、荒涼たる風景の中に花と紅葉を一瞬だけれども見せている一首です。この言いまわしはとても日本的な方法で、日本人が何をイマジネーションとして表現しようとしてきたのかを、如実に象徴しています。
 世阿弥の能舞台も舞台に最小限のものしかありませんし、利休の茶室も四畳半や二畳台目まで切り詰められている。しかも薄暗い。けれどもそうだからこそ、そこに能管がピーッと鳴って鏡の間から能装束のシテがゆっくり登場してくるだけで、舞台は一気に物語の開始を告げるのだし、茶室の床に一輪の白玉椿があるだけで、その場がパッと華やぐ。それと同様に、私たちがイメージというものを想起するときに、これ以外に有効なものはないだろうという形で、この歌は詠まれていると思うんですね。
 日本文化では「そこに何かがある」というのはあまりイメージを刺激しないんです。そこに「何かがない」にもかかわらず、一番あってほしいものを暗示することが、最も日本的な想像力の見せ方なんですね。そこがヨーロッパとは違うかもしれません。

pp.266-8

以上のような、極めて知的に微に入り細に富んだ遣り取りが交わされています。そしてその最後に日本の文化が取り上げられて、読者をこの対談の一種の佳境に導いて行きます。

ところで私などは、科学者でも文化人でもない門外漢ですから、こうした繊細かつ精緻な議論には大いに目を開かされるのですが、その一方、日本に生まれ育った並な生活者として、そういう指摘には、何か片手落ちにすれ違っているような、ある種の別世界感を見出してしまいます。それがこの対談の流れでは、「日本文化」の特徴として扱われているのですが、それはなにも「日本文化」に限られない、それ以前の、生命の営みにまつわる働きが沁みついた存在には、ある意味で、当り前のようにも付きまとっている特性があるのではないかと思われるゆえです。

そこで、それを「引き算」と指摘するのも一視点ですが、そもそもそれが「日本文化」の特異性と関係しているとするなら、他に、日本の一つの特異性として感受されてきている、本源的に〈謙虚な〉視点、すなわち、自分が拠って立っている立場の持つ《不完全さの受容感性》があります。言い換えれば、時には日本人の弱点とさえ指摘される、広く共有されている〈控え目さ〉、〈奥ゆかしさ〉、あるいは〈あいまいさ〉にも連なっているものです。

このあたりの微妙なすれ違い感をベースに、これまた不思議とも受け止められるのが、それが上述の「主知主義の勇み足」の証左とも推量されるのですが、こうした二人の対談で、しかもここまで日本文化に立ち入りながら、タッチされていない一つの要所があることです。それは、日本文化に欠けているといわれる哲学との視点から、そうであるからこそ貴重である、西田幾太郎のいわゆる「日本の哲学」に、なぜか話がおよんでいないのかということです。

さて、この議論に入ってゆくには、ちょっとした話の分量が必要です。そこで今回は、以上のような導入だけに留め、続きは「『MaHa』の学的最前線(その8)」で、詳述してゆきたいと思います。

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