第4章 生命アナログ

「人工知力専制主義」の火ぶたが切られた

まずはじめに、前章から引き続く、本章への関連から述べておきます。

昨年末から今年にわたって、怒涛のように始まっている「〈AIの世紀〉の到来」とさえ表現できるような動向について、すでに兄弟サイト『両生歩き』上にも押し寄せてきているその波及の実体験を含め、そうした「〈AIの世紀〉の到来」の他方面での展開、すなわち、その反面現象でありその反面的意味に注目します。

それは、この「〈AIの世紀〉の到来」を俯瞰的な視野で観察する時、過去の人間文明の発達の一つの特徴よりかんがみることができる視界です。すなわち、前章でそれを「AIブルドーザー」とたとえたように、「〈AIの世紀〉の到来」は、自然や天災に立ち向かう人間を助ける「ブルドーザー」――自然環境を破壊すらする現代技術の象徴のごとき野蛮なほどに強力な建設機械――のイメージに重なり合ってくるものです。つまり、「AIブルドーザー」とも呼べるかの「AI本主義」の火ぶたが切られたかの状況です。またこのごろの悪さを言い換えれば、「人工知力専制主義」ともたとえられる新時代到来の気配です。

ここに、そういう時代が始まらんとしているとの認識に立ってみる時、そこで同時的に起こっている「MaHaの誕生」であり、そこに垣間見始められている「双対的」現象があることです。

言い換えれば、当『フィラース』サイトで展開されてきたその主柱たる議論が、急遽、開始されているこの新時代にあって、そうした一連の議論の意義として、図らずも、浮かび上がってきていることです。

MaHa誕生の意義

前号の「サイト訪問統計分析レポート」で述べたように、そうした「AIの世紀」の波及がまだこの『フィラース』にはおよんでいないことについて、ここで一つの仮説が立てられます。すなわち、同レポート上では、この未波及については、そうした議論の受け入れられている規模の違いに理由を求めました。それを、この仮説においては、「AIは、まだ、MaHaにまつわるような《双対性》というものを理解していないからではないか」とするものです。言うなれば、「AIの数理アルゴリズムは、《双対性》を想定しえていない」とするものです。

すでに本サイトの読者におかれては、先の「「MaHa」の解析」で見たように、その一連の議論を述べるにあたって用いられた3軸の座標を用いた分析において、その各軸をなす尺度の単位が、数理アルゴリズムが用いる「数理」単位ではなく、「メタ量」単位であったことを銘記されていることと思います。

そこで、この「メタ量」とは何かを含めて、この非数理的な単位について、「AIの世紀の到来」と「双対的視点」との間に見出されるギャップをめぐって、そこに浮かび上がってくる視点が、タイトルに掲げられている《生命アナログ》というものです。

〈数理アルゴリズム〉では捉えられない世界

これまでの当『フィラース』における議論の核心は、生命現象への注目と、そこに発見される深淵さでした。そして、そうした発展と今日での「AIの世紀」の波及がもたらすこのギャップが逆照明的に示唆してくるものがこの《生命アナログ》です。

ただ「アナログ」とは、今日の数理解析の主柱をなす「デジタル」解析以前の柱をなしていた考え方の原理です。その意味で、「アナログ」はひと時代昔の段階を連想させるものですが、本章におけるそれは、むしろ「アナログの新局面」とも言ってよい、温故知新な着想です。つまり、〈数理アルゴリズム〉が汲み落としてきた世界を捉えるための思考方式です。

すなわち、「AIの世紀の到来」と「双対的視点」との間に見出されるこのギャップにおいて、前者、数理アルゴリズムは、デジタル技術を精密かつ広範囲に駆使して、人間が導き出しているものです。その一方、後者は、そういう人間が生命体のひとつであることによって導き出されているものです。しかも、人間は生命体世界の中でも一部にすぎず、人間以外の生命体も数限りなく存在するわけです。したがって、この生命体の内包するものが数理アルゴリズムと区別されるところは何かと、それこそディープラーニングしてみる時、そこに見出されるのは、デジタル化される以前のアナログの世界、ことに生命がゆえにはぐくまれている《生命アナログ》の世界です。それは、デジタルな「飛び飛び」の世界ではなく、連続的に変化し、位相を変え、変態さえしてゆく、有機的な世界です。

また、私自身がひとつの生命体であることは疑いようなく、私が日々刻々に感知しているもろもろは、そうした生命体であるがゆえのもので、デジタルな数理アナゴリズムによって汲み上げられるものではなく、周囲全体の世界へと切れ目なく連なっている影響を受けた結果であることです。ただ、それを受け取り、ことに意識上に登らせることのできるのは、私の獲得知識ではあまりに限られた量や質でしかありません(むしろ、デジタルな知識がそれを妨げる)。ところがです、私にあるセンサーは、意識が捉えているか否かに関係なく、そこにある何かとの関係性は維持しています。そういう辺縁域に照明を当て、それを包括的働きをもって汲み上げようとするものが《生命アナログ》という捉え方です。

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