3. 未来に見るポータル

まずお詫びですが、この10月、11月と海外に出ていたために(その関連記事は「両生歩き」サイトをご覧ください)、本欄の執筆がとどこおり、この「近量子生活」サブサイトの記事についても、「1. 過去」「2. 現在」との二回は終えていますが、その「3. 未来」については、後回しとなっていました。読者の皆様には深くお詫び申し上げます。



3.1 「越境」への展望

筆者はことし76歳で、お役所用語で言えば「後期高齢者」に入って2年目を迎えています。その意味で、その「未来」とはきわめて限定されたものに違いありません。

日本人の平均寿命の84.3歳(男81.41歳、女87.45歳)から言えば、あと10年もしないで、平均的には私の寿命は尽きることとなります。その一方、社会には「人生100年」などとの楽観論もあり、もっと先まで伸びる命運となるかも知れません。

ともあれ、実際の命運の時がいつになろうと、気持ちの上での「あとxx年」といった逆算的発想は、避けられないというより、現実的な視野に入れざるをえないものとなっています。

そういう自分の未来に関する視界のなかで、私が幾度も採り上げてきた言葉に「越境」というものがあります。それは、やがてやってくるそうした自分の「死」というものを、ゴールや終点とするのではなく、ひとつの「境界線」あるいは「通過点」として、さらに続くその先を想定してみるものです。

そうした「境界」の先を展望するポータルとして、私は三つのアプローチをもってそこに臨もうとしています。その三つとは、身体、心性、量子理論です。

3.2 「身体」としての境界

この境界については、あえて多言は必要ないと思うのですが、常識にほぼ近い、「身体」が尽きる時との受け止めで、すなわち、それは「境界」ではないとするものです。

ただ、そうではありながら、私が近年、切実に受け止めてきていることは、その「終点」とはきわめて動的であることです。つまり、いわゆる「健康」が条件となって、その境界が実際に訪れる時が、人によって、まして自分においても、実に切実な違いが出てくることです。

しかもその違いとは、その境界に関する年齢だけでなく、それまでの毎年において実際に味わう生活の中身――一般に言われる「生活の質(quality of life)」――において、雲泥の差すら生まれることです。

そうした「健康」にまつわる議論については、他で多くを述べてきていますのでここでは特に立ち入りません。ただ、この健康という見地に限った視点においても、「境界」までの道程については、それがいかに貴重なものであるかは、強調してそのし過ぎはないことです。ことに、その「境界」がはるか遠い先にしか感じられない若い世代にとって、若い時代にはそれ――健康であること――があまりに当たり前であるがゆえ、その無頓着や浪費が、後になってどれほどに高いコストになるのかについては、よくよく胸に刻んでもらいたいことです。とくにそれは、往々にしてお金で解決できるかの短見な風潮が横行しているがゆえ、間違いなくお金以上の優先課題であるとして、誤認や看過をしないでもらいたいことです。

そこで、この健康に関してことに触れておきたい一つの要点があります。それは、健康とは人生における老若に関わらない最重要なインフラであって、それなくしては他の何ものも機能しないことです。ことに、他にどれほどの可能性があろうと、ただ一点の致命的不健康をもっていただけで、その可能性はそこで閉じられてしまうことです。「失って知る」のではすでに遅すぎます。

こうした唯身体論としてでも、それを単に終点とは見定めきれない、動的な視点が避けられません。

3.3 「心性」としての境界

以上のような唯身体論が含まない境界への重要なアプローチが、唯心論、つまり「心性」という境界をこえる連続です。

広く一般的には、それを「魂」と呼んだりもします。そうした名称には伝統的な意味合いがあり、その線上でそれを連想します。そこで本稿では、そうした意味合いとは一線を画すために、それを「心性」と呼びます。

私がこの「心性」に関し、それを「境界」としてその先の存在を想定するきっかけとしたものは、5年前に遭遇した臨死体験です。ことにその体験においては、身体が大きく麻痺してゆく――つまり身体インフラが決定的に不全に向かいつつある――中でも、自分の意識は少しも衰えず、かえって鮮明とすらなっており、そうした意識の働きが存在する根拠を、身体インフラのみに依存しているとはとても断定できない――何か《身体以外の外部》からの支えがあるかとの――思いを抱かせる体験でした。

むろんこの出来事は、私の個的体験のみに基づくもので、客観的物証をもって証明できる種類のものではありません。しかし、この議論のように、人間の心的現象を扱う場合、それは一義的に、ある人間が体験した心象に拠ることより始めざるをえません。もちろんこれは、私の体験した一例にすぎず、それをもってその一般化はできません。そうではありますが、もし、同様な事例が他にも存在するといった傍証が挙げられるとするなら、その傍証に応じて、一般化への度を深めてゆくものと判断されます。そこでそのようにして、同種体験事例が積み上げられてゆくなら、それを「事例積み上げ法」とでも呼んで、その立証手段にして行けるのではと考えます。

さてそこで、上記の「身体以外の外部」とは何かなのですが、それを私は、まだ私たち人類が知らない現象を含めた「宇宙の摂理」の働きにつらなるものと考えます。そしてその「節理」の開拓の第一歩として、いまや最先端の科学たる量子理論が解明してきている知見へと、以下のように踏み入って行きたいと思います。

3.4 量子理論における境界

量子理論については、すでに本サイトおよび兄弟サイトにおいて、いろいろな角度より様々に論じてきました。まずその取っ掛かかりとしては『新学問のすすめ』、解釈をより身近に引き寄せたものとしては『パラダイム変化:霊性から非局所性へ』、そしてそれをさらに踏み込んだ『“KENKYOFUKAI”シリーズ』があり、もっとも最近のものでは『理論人間生命学』の内のことに第5部の「量子的人間観」が挙げられます。

ひとつの立場

私はもちろん、いわゆる「物理屋さん」ではありません。まして、その物理学が駆使する「言葉」たる高等数学をあやつれる俊才でもありません。そうした並の人間が、上記のように、いっぱしに量子理論について述べてきています。つまり、そうした私が量子世界について述べるにあたっては、ひとつ明確にしておくべき立場があります。それは、以下に述べる3種の立場において、その第3の「C. 理論人間生命学の立場」であるということです。そこでまず、この3つの立場について概説しておきます。

A. 古典物理学の立場 この「古典」というのは、物理学の発達過程のうちの「ニュートン力学」まで、つまり「量子力学以前」のことを指し、物体(その最小単位は粒子とする)の位置と運動が特定されれば、その未来も予測できるとする立場です。これまでの近代科学や合理性の骨格をなしてきた考えです。また、その合理性を根拠に、逆に、非近代的・非合理的なものとして、宗教や、ことに超自然現象を排除してきました。

B. 量子力学の立場 過去1世紀少々の間で、物質のもっとも微細な要素=素粒子の研究から、それが粒子とも波動とも断定できない性質を示し、今ではそれはもはや一種の「情報」であると考えられてきています。その中で、量子とよばれるその最微細要素のもつスピンと呼ばれる一対の性質をめぐり、古典的理論では考えられない、「エンタングルメント(もつれ合い)」とか「テレポーテーション」という奇異な性質が実証されています。そのようにして発見された性質を利用すると、単位の量子当たりでより多くの情報を処理でき、その性質とそれを用いたアナゴリズムを組み合わせることで、目下、量子コンピューターが開発されています。

C. 理論人間生命学の立場 上記のような量子の性質の解明において、従来の古典物理学の考え方をくつがす結果をもたらしたのが、「局地性と非局地性」という考え方です。これは、量子という「情報としての存在」を理解する途上で考え出されてきた概念です。それをこの「理論人間生命学の立場」では、人間自身の存在を、「A. 古典物理学の立場」で捉えているのが「局地性」で、それを「B. 量子力学の立場」で捉えるのが「非局地性」として考えます。こうした捉え方は、先の「空海と量子理論」で論じた見方――そこで述べた「因果律」と「局地性」、「想像力」と「非局地性」と対応させる――にも通じるものです。むろん、量子力学の対象は量子というミクロ要素です。それを、そうしたミクロ要素の集合体である人間存在にもその根本概念は適用可能とするのが、この理論人間生命学の立場です。

私が上に挙げた諸文書において、たびたび「牽強付会」という言葉を使ってきたのは、この三つの立場、ことにBの立場の考えをCの立場に適用する際です。したがって、Cの立場は厳密にはBの立場ではなく、Bの根本概念を土台にして、いわば人間サイズに延長解釈したものです。

「量子力学」を道具として

私が「理論人間生命学」において「量子理論」と呼んでいるものは、この「C. 理論人間生命学の立場」に相当します。

こうして、現代最先端を行く、そしてそれだけに世界を変えつつある量子力学の神髄を取り入れて、「物理屋さん」たちが築いてきたフィジカルな成果を、その専門世界の産物とするだけでなく、広く私たちの生活に活用したいとするメタフィジカルな狙いが本稿です。

こうして「量子理論」をもってして、自分に到来してくるのが不可避な「境界」を考えようとしています。それは以上のように、現代物理学の厳密な実験で実証された現象にもとずく事実を根拠とした理論をメタフィジカルに拡大したものです。そしてこのメタな視点とは、現代物理学がまだ厳密には実証されていない可能性や仮説を積極的に含もうとするものです。その意味では、現代物理学の先を行く考えとも言えます。そして、ここに開かれるポータルこそ、その境界を越境してゆくものとなるはずです。

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